大判例

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東京高等裁判所 昭和36年(う)1519号 判決

被告人 高倉輝

〔抄 録〕

各所論は要するに、原判決は被告人が本邦より出国した日時を昭和二七年九月頃から同三三年一〇月上旬頃までの間と限定するも、被告人が本邦を出国したのは昭和二六年九月中であり、従つて出入国管理令が施行された昭和二六年一一月一日(但し、弁護人は後記のとおり右の施行は昭和二七年五月二八日からと主張する)以前のことに属する旨原判決の事実誤認を主張するものである。

よつて各所論に基き本件記録を精査して検討するに、原判決が挙示する証拠を綜合すると、原判示事実は所論指摘の点を含めこれを肯認するに足る。弁護人の所論によると、原判決挙示の証拠中、右争点に最も関係の深い証人村岡哲也、同重松俊夫、同宇山良之助の各証言は、同人等がいずれも警察官であるところ、当時被告人高倉輝には何等犯罪嫌疑もなかつたのに拘わらず同人を執拗に張込み、尾行し、その結果得た証言である。右の如く捜査機関による違法な証拠蒐集手続の結果得た証拠は証拠能力に欠けるものであるから、これを証拠に供し事実を認定した原判決は訴訟手続に法令違反があると主張する。

一、そこで、先ず右各証言の証拠能力の有無につき検討すると、違法に押収された押収物、或はその差押調書の証拠能力については所論が指摘する如くこれを否定した判決例もあるが、一方、その証拠能力を肯定した判決例も多数存するので(旧法につき昭和二四年一二月一三日最高裁判所第三小法廷判決、昭和二八年一一月二五日東京高等裁判所判決等)、所論指摘の判決が確定した判例とみることはできない。いわんや、本件は違法に蒐集された押収物、或はその差押調書ではなくして、公判廷における証人の証言に関するものであるから固より右と同一に論ずることはできない。証言の証拠能力欠缺の場合については刑事訴訟法第三二〇条以下に明文の規定があるところ、本件証言はそのいずれにも該当しない。所論は、右各証言は違法な張込み、尾行の結果得た証言であるから証拠能力がないと主張するものであるが、刑事訴訟法その他の法令において張込み、尾行を特に禁止した明文はなく、犯罪捜査の場合の外、警備保安の必要上からも、それが著しく人権を侵害するが如き方法によるものでない限り、張込み、尾行も許されると解するから、それが直ちに違法であると断ずることはできない。ところで、証人宇山良之助の原審証言によると、同人は警察事務官であつて犯罪の捜査、警備等の職務権限はなく、被告人の尾行、張込みに従事した事跡は全く認められない。それ故同人については所論は全く理由がない。次に、証人重松俊夫の原審証言によると、同人はもと警察官として国家地方警察武蔵野支署に勤務していたが、警察機構の改革により右支署が解散された為、昭和二六年一〇月初小金井地区警察署の国分寺警部派出所に転じ、同二七年一月初頃からは小金井地区警察本署に勤務するに至つたものであるが、昭和二六年夏頃被告人の息高倉太郎に紹介を受け、被告人の承諾の下に同人方を訪問し、被告人と会談したことがあり、又その頃一〇日間位、職務上被告人の動向視察に従事したことも窺われる。ところがその後になつて前記のとおり勤務署が変更し、従つてその担当職務も変更になつたと推認できる昭和二七年一月七日朝、自宅から勤務先小金井地区警察署に国電で通勤の途中、偶々三鷹駅で被告人と同じ電車に乗り合せ、同駅から証人の下車駅である小金井駅まで被告人と同車したことが認められる。

されば、右は同証人が職務とは関係なく全く偶然の機会に被告人を目撃したに過ぎず、職務上特に被告人を尾行した結果ではない。又、証人村岡哲也の原審証言によると、同人は昭和二三年二月頃から三鷹警察署に勤務し、捜査係を経て同二六年九月六日から同署警備係として勤務していたものであるが、昭和二三年一〇月上旬頃被告人方の北側に接する家屋に居住する宮内力と懇意となり、屡々同人方を訪ねる内、同二五年六月六日頃被告人が同所に入居した後、上司の指示により宮内方から被告人の動静を視察していたことがある。

ところが、同二七年三月二日宮内が政令違反の嫌疑で勾留された為、その後は同人との仲が拙くなつて暫く同家へ出入りをやめていたところ、同年秋頃宮内から招かれたので同人方を訪れ、その帰途、被行人方附近で被告人と出遭い同人が自宅に入るのを確認したことが認められる。右のように、同証人が且て上司の指示により被告人方の張込みに従事していたことは窺知できるが、昭和二七年秋宮内方を訪問しての帰えりに被告人と出遭つたのはこれまた偶然の機会であつて、職務上の張込み、尾行の結果であつたとは認め難い。

以上のとおりであるから、重松、村岡、両証言は両名が職務上の尾行、張込み中に知りえた経験を証言したものとは認められないから、所論はその前提を欠き失当である。仮りに、重松、村岡両証言についてはそれが職務上の尾行、張込みの結果えた智識であると認むべきものであるとしても、右の程度では、未だ著しく人権を侵害する不当、違法な尾行、張込みとは認め難く、更に、仮りに尾行、張込みに行き過ぎがあつたとしても、公判廷で適法な手続により尋問を受け供述した証言は証拠能力を有するものと解するのが相当である。されば、所論は独自の見解であつて到底採用することができない(昭和三六年六月七日最高裁判所大法廷判決参照)。

そこで所論に基き、更に進んで右三証言の信憑性につき検討を加えると、

一、宇山証言について、同証言は、原審証人宇山良之助が被告人と共に同人方附近の雪かきをした年月日の点に関するものであるが、同証言によると、「雪かきが昭和何年の何月頃であつたかについてはさつぱり記憶がないが、交通機関が大雪のため杜絶して、やつとこすつとこ午後二時頃警視庁に着いたことのある翌年の雪であつたかすかな記憶がある。」「その朝、高倉さんと雪かきの後、すすめられるまま同家に上がり、書棚のある部屋へ連れていつていただき一〇分位いた。その時これが私の出した本ですよ、お暇の時お読み下さいといつて「箱根用水」という本を出され、それでその時初めてその著者が高倉輝であることがわかつた。その本は抜き読みして、その次の日曜だと記憶するが自分で返えしに行き玄関へ置いてきた。記憶によれば本を借りてから二、三箇月位あとに、吉祥寺の井之頭会館で「箱根用水」を映画化した「箱根風雲録」を観た。」と証言している。これによると、雪かきと、その機会に始めて知つた被告人からその著書「箱根用水」を借り読みしたこと、及びその書物が映画化し上映されたのを観たことが相関連し、事柄の性質上特異な経験であつて、その記憶に誤りがあるとは信じられない。ところで、原審証人丹羽和子の証言によると、井之頭会館に「箱根風雲録」が上映されたのは昭和二七年三月一四日から同月二〇日までの間であるから、宇山が被告人と共に雪かきしたのは昭和二七年であつたことが推認できる。又宇山証言によると、「その雪かきは確か日曜でした、私休んでおりましたから。割合に自分の気持がのんびりしていた関係で、仕事の閑散な時じやないかと思うのです。それで二月じやないかと思うのです。」と述べている。そこで、成蹊学園内吉祥寺観測所加藤藤吉作成の回答書を検すると、昭和二七年二月中の日曜日の朝に積雪のあつた記載がなく、一方、同二七年一月六日の日曜日に一七糎の積雪のあつた旨の記載があるところから、これと記憶違いをしたのではないかとも思料される。若しそうだとすれば、その二、三箇月後に映画を観たとの記憶とも符合する。又右回答書によると、昭和二六年二月一五日(木曜日)朝三八糎の積雪があつたことが明らかであるから、同証言にいう前年の大雪とはこれを指称するものとみることができるのである。古いことであり、多少記憶の不正確なのは己むをえないところであるが、映画を観たこととの関連からして、雪かきが「箱根風雲録」上映の年である昭和二七年冬であつたとの証言は信用性があるものと謂わなければならない。

二、重松証言について、同証言によると、重松俊夫は自宅から朝国電で小金井地区警察署に通勤の途中、国鉄三鷹駅で被告人と出遭つたというのであり、同人が同署に転勤したのが昭和二七年一月初であるところからすると、右の出遭いが同二七年一月であるとの同証言は信用性があるのみならず、原審証人松薗節雄の証言、押収に係る「基疑情報」と題する書面、及び当審証人高橋哲治の証言によつてもこれを裏付けるに十分である。又重松証人は前記のとおり、被告人を同人方に訪問し対談したこともある位であるから、人違をしたものとも思われない。総べての点において、同証言は最も信憑性の強いものということができる。

三、村岡証言について、同証言によると、原審証人村岡哲也は「被告人を見かけたのは、山茶花か何かそういう花が咲き始めた頃です。その日はもやが非常にかかつておつたものですから、正確な月日はわかりませんが、とにかく季節的には秋ということは間違いありません。高倉さんと遭つたのは宮内の事件が発生して一応私の所へ連絡があつたのが四月早々ですから、考えてみるとそれから五カ月ないし六カ月位経つてからです」と証言し、一方、宮内力に対する勾留状謄本の記載によると、同人の勾留状執行の日が昭和二七年三月二〇日であるところから、右被告人との出遭が同年秋であることが肯認できる。尤も、同証人は右の出遭が「夕方六時か六時半頃だと思う、」と証言し、山茶花の花の咲く時節の午後六時頃は、東京附近においては既に人の顔の見分けの困難な時刻であることは所論のとおりであるが、右時刻の点は、別段同証人が時計を見て正確に計り、これを記憶していたものとも考えられないので、この点は何等かの記憶違いであるとしても格別不当ではない。同証人は始め証言するに当つて、被告人を職務上張込み動向視察していた点を殊更ら秘匿しようとして、証言に瞹眛な点があつたのは窺知できるのであるが、宮内力の勾留状執行の日との関係から、同証人が最後に被告人を見かけたのが昭和二七年秋頃であるとの証言は、たやすくこれを覆えすことはできない。

以上のとおりであるから、宇山、重松、村岡の各証言は、いずれも被告人と出遭つた時期を記憶するにつき根拠があり、これを以て信用性がないと、たやすく葬り去ることはできない。

ところで、一方弁護人側申請の各証人の証言を検討するに、原審証人森友治は「自分は昭和二六年五月一五日から胃潰瘍を再発して勤務ができなくなり、高倉さんの長女の信さんを主治医として診察を受け、薬は私の方からも取りに行くことはありましたが、大体高倉輝氏に再々薬を運んでいただいた。それがばつたり止まつたのが大体八月の中旬、或は下旬頃じやないかと記憶する。それから間もなく病気も治り、同年九月一八日から出勤を始めた。」と証言し、原審証人市川市三は高倉さん方は私と隣同志で、同人は参議院選挙のあつた昭和二五年六月頃入つてこれら、そして一年位経つていなくなつたのに気がついた。それは夏頃ということは間違いない。」と証言し、被告人の長男高倉太郎は原審公廷で「父は昭和二六年九月初に家からいなくなつた。」と証言しており、以上の証言によると、被告人が昭和二六年九月上旬頃三鷹市上蓮雀六六〇番地の自宅を立ち去つた事実を認め得ないではないが、仮りに然りとしても、そのことからして直ちに被告人がその頃、本邦外に出国したと断定することはできない。被告人は当時連合国最高司令官の覚書該当者として公職から追放されると共に、日本共産党の中央委員をしていた等の関係から、一時家族からも所在をくらまし地下活動に従事したとも推測できるのであつて、当審証人山本薩夫、同松本西三、同三井金次郎の証言により窺われる、昭和二六年八月頃から始まつた映画「箱根風雲録」の製作に当つて、原作者である被告人がこれに関与しなかつた事情も、右によつて理解できる。なお、原審証人市川市三は、昭和二六年二月に一尺五寸位雪が積つた時、被告人と雪かきをした、それが昭和二六年二月であることは、自分の妻が盈進学園に入学する知人の子供を入学試験に同伴した日であつて、その子供が今年(昭和三五年)高等学校一年に上るのでわかる旨証言している。ところが、当審で取調べた盈進学園長丸山鋭雄作成の照会回答書によると、昭和二六年施行の同学園入学試験は一月二三日(日曜日)であり、前記加藤藤吉の回答書では、同日には降雪の記録が存しないから、右証言が誤解であることが明白である。

次に、アリバイ関係の各証言につき考察するに、原審証人金子健太は昭和二六年一〇月上旬モスクワのナシヨナルホテルで、同井上林は同年一〇月末北京市内で、同石田精一は同年一〇月か一一月の初北京市内で、同金丸千尋は昭和二七年三月三日頃チチハル市政府外事課で、いずれも高倉輝と会つたと証言している。ところが、右四人の証人はソビエト或は中国で高倉輝に会つたと証言するが、いずれの場合にも同人は、自分が高倉輝であるとは名乗つておらず、右証人中被告人を予てから識つていたと認められるのは金子証人だけであり、殊に、井上、金丸の両証人は新聞写真等を見て始めてそれが高倉輝であると推測したというに過ぎない。又金子、井上、石田各証人が被告人と所属党を同一にしていた点等をも考慮すると、右各証言を裏付けるに足る確証のない限り、たやすくこれらを以て原審認定事実を覆えすには足りない。なお、論旨中原審は予断偏見に基き証拠の取捨をした違法があるとの主張については、そのような事跡は本件記録上認められないから採用することができない。

その他、本件記録を精査し、且つ、当審における事実取調べの結果に徴しても、原判決には事実を誤認し、或は証拠能力のない証拠を採証した等採証法則に違反した違法も認められないから、論旨はいずれも理由がない。

二、なお、風早弁護人の控訴趣意第一点によると、出入国管理令の法律としての効力は、昭和二七年四月二八日から発生したものであると主張するにつき考察すると、昭和二六年一〇月四日政令第三一九号出入国管理令附則第一号によると、この政令は昭和二六年一一月一日から施行するとあつて、同日から効力を発生したものであることは明白である。然るところ、右政令はポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件(昭和二〇年勅令第五四二号)に基き制定されたものであるから、平和条約の発効と共にその効力の存廃が問題となるのであるが、昭和二七年四月二八日法律第一二六号ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸法令の措置に関する法律第四条により、右政令は平和条約発効後もそのまま法律として効力を保有することとなつたものである。所論の団体等規正令と破壊活動防止法との関係は、後者によつて団体等規正令が廃止され、内容の全く異つた破壊活動防止法が新に制定されたものであるから、その経過規定として同法附則に、この法律施行前になした行為に対する団体等規正令の罰則の適用については、なお従前の例による旨の特則を設けたものであつて、本法の場合と同一に論ずることはできない。出入国管理令は昭和二六年一一月一日施行の日から平和条約発効の昭和二七年四月二八日まではなお政令としての効力を有し、その後は引続き法律としての効力を保有するものであるから、昭和二六年一一月一日から同令の適用をみることは明白である。論旨は理由がない。

(渡辺好 目黒 深谷)

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